実行委員会メンバーには、3.11の大震災を体験したおやじがいます。
前・若久特別支援学校おやじの会会長、前・同校PTA会長の渡部さんです。
渡部さんは道路工事関係のお仕事で、全国各地で活躍されています。現在は、名古屋に単身赴任中で、笹子トンネルでの天井盤崩落事故以降はトンネル改修工事の仕事がひきもきらず、なかなか福岡に戻れません。
渡部さんが震災に遭遇したのは、3年前の3月11日、岩手県宮古市で橋梁建設の最中。
本来であれば、第14回「福岡市おやじサミット」で分科会を設けて語っていただきたいところですが、既に第12回弥永西小学校での第五分科会で体験談を話されていますので、今回は見送りです。
その渡部さんから、「東日本大震災体験レポート」が届きましたので、ご紹介します。
迫真の体験記事です。ご覧ください。
<以下、渡部さんによる文章と写真です>
皆さん、こんにちは!
ここに文章を掲載させて頂く機会を頂き、せっかくなので、東日本大震災の体験談を掲載させて頂くことにしました。
書きたいことは沢山ありますが、大まかに概要だけ抜粋して紹介させて頂きます。
(尚、写真は私が実際現場で撮影したものを掲載しています。)
私が震災の時に何をしていたかと言うと、岩手県宮古市で海から1本目の橋(目の前海)の架替工事をやっていました。
まず、震災前の状況写真を見てください。
現場は秋には鮭が遡上してくる川で、当時も季節外れの鮭が数匹姿を見せていました。
写真の奥が市街地になり、橋の奥と手前で高低差が約3mあり、後にこの差が橋の向こう側とこちら側とで雲泥の差が生じる事になります。
地震発生と同時に橋の手前の信号機が一斉に消えたので停電したことは直ぐに分かりました。
すぐ、携帯も見ましたが、既に使用不能になっており、結局携帯は被災地を出るまで何の役にも立ちませんでした。
次に津波の写真を見てください。
言葉もありません。
津波が来る前、橋の向こう側(市街地側)には現場の職人さん達と地元の住民の方たちが沢山いたのですが、津波が来た瞬間、人影は見えなくなりました。
直ぐにみんなを探しに行きたかったのですが、その後も大きな余震が何回も来て、いつまた津波が来るか全くわからない状態でしたので市街地の方に入ることが出来ませんでした。
結局その晩は、現場事務所で職人の親方と二人で待機し、翌朝から交代で職人さんたちを探しに行くことにしました。
翌朝市街地に入って目にした光景はまさに絶望的でしたが、そんなことは言ってられません。
結局震災から3日後職人さん達と会うことが出来(ずっと避難所にいたそうです)、話を聞くと写真4 の矢印部にバス停があり、下から階段で上がれるようになっており、波に追われながらもギリギリ間に合ったと言うことでした。(写真 6 の方が判りやすいかもしれません)
また、何故現場事務所に来なかったのか訊ねると、「橋を渡るのが怖くて行けなかった」とも言っていました。(この時もまだ大きな余震は続いていました)
皆の無事を確認してから、この状況ではとても工事処の状態ではないので、福岡へ一旦戻ることにしました。
たまたま車は無事でガソリンも半分以上入っていたのですが、交通機関も道路も壊滅状態でどうやって帰っていいものか判らず、ラジオの状況から太平洋側は動けそうにないので、とりあえず、日本海側(秋田県)に行って、そこから先は向こうで考えようと思いました。
ところが秋田までは約300Km、ガソリンも手に入らない状態で、雪道など殆ど運転したこともない九州の親父が一人で峠を2つ越えて、走行中のラジオでは福島原発がまさに、水素爆発するとかしないとかいうニュ-スが流れる中、無事秋田に着いたときは倒れそうでした。
秋田に着いてまず、ダメ元でJR秋田駅に行ってみましたが、案の定、新幹線、在来線とも不通で復旧の見通し無しと言われ、私もここで力尽き、駅前のホテルが空いていたので、泊まることにし、部屋に入って何気に水道の蛇口ひねったら、水が出てびっくりして「ここは天国か?」と思ったことを覚えています。
結局 秋田空港 - 羽田 - 福岡 経由で帰ることが出来ましたが、工事は一旦中止になり、私は暫くして、また別の現場へ・・・
ともすれば忘れがちですが、この体験談を読んだ皆さんが、震災の時、何を感じ、どう考えたのか?
思い出すきっかけになれば幸いです。
以上
最近のコメント